ニュースリリース

全文―マイケル・オッターソンのフェアモルモン大会での説教

公表前提

マイケル・オッターソン

2015年8月6-7日 フェアモルモン大会

すばらしい大会です。聡明な人々が重要な問題について尋ね,答えてくださいました。話者のリストとそのテーマは印象的で,近年フェアモルモンがどれほど成長したかを知るための促しとなっています。この2日間のプレゼンテーションの豊富なテーマの中で,わたしは教会広報における自分の仕事に関連したことで,この探究心あふれる聴衆の助けともなる,自分が提供することができ,また提供すべきテーマついて慎重に考えました。

まず,幾つかの背景についてお話しします。これは多少個人的な性質のものなので,その点については赦していただきたいのですが,後にわたしがお話することに関係しています。わたしは教会の改宗者です。このことは特にわたしの業種には有利であることが分かりました。多くの宣教師とかなり熱心に長期にわたり関わった後にイングランドで教会に加わったときは19歳でした。教会に入る前,手に入る全ての書物を読みました。当時,わたしたちの信仰の物議を呼ぶ最初のきっかけは,リバプールの大きな市立図書館を訪れたことから始まりました。さて,リバプールはわたしの生まれ故郷であると話すと,よくビートルズと知り合いかどうかと尋ねられます。答えは,「いいえ,個人的には知りません」ですが,妻は10代の頃,トイレを借りたくてポール・マッカートニーの玄関のドアをノックしたことがあるそうです。トイレは借りられましたが,ポールは不在だったそうです。しかし,教会において,リバプールは何より,この神権時代において北アメリカ以外に最初に宣教師が訪れた場所として知られています。1837年にガーリック号がそこに停泊した際,ヒーバー・C・キンボールが波止場に第一歩を踏み出したのでした。後に,1851年,フランクリン・D・リチャーズがリバプールで高価な真珠の第1版を編さんし,この町は『ミレニアルスター』の出版センターとなりました。

ヒーバー・C・キンボールがマージー川の波止場に第一歩を踏み出してから130年後,わたしはモルモンについて見つけられる事柄を確認するために,その同じ町の中央図書館に出向きました。わたしはモルモンについて詳細に記された,あるいは抜粋された記述も含め,30冊以上の書物を見つけました。記憶が正しければ,2冊を除いた全ての書物が否定的な論調か,あからさまに攻撃的な内容でした。ですので,教会員になる前だというのに,わたしは教会に対する批判の性質や論調についてよく理解していました。

わたしがここにいるということは,頭で考えたり,特にジョセフ・スミスとモルモン書の霊的に力強い証と比べたりしたとき,これらの議論はわたしに対してモルモン書それ自体ほど説得力を持たなかったという事実を示しています。1970年4月19日まで話を進めましょう。当時は新妻とともにオーストラリアに住んでいました。愛する祝福師がわたしの頭に手を置いて祝福師の祝福を授けたとき,その言葉の中に次のような語句が含まれていました。「あなたには福音を擁護する機会が与えられるでしょう。」わたしはいつもこの言葉の選択,すなわち「教えを説く」でも「宣べ伝える」でも「教える」でもなく,「擁護する」という言葉が使われたことに関心を持っていました。「擁護する」という言葉を選んだ際,祝福師はわたしが当時知る由もなかった何を見たのでしょうか。

1か月後,妻とわたしはニュージーランド神殿にいました。わたしは当時長老となったので,二人で結び固めを受けたのです。そこには1週間滞在しましたが,神殿の中で,あるベテランの神殿奉仕者がわたしに近づいて来ました。「君はジャーナリストではないかね」と彼は尋ねてきました。その質問には驚かされました。なぜなら,そのことは誰にも話した覚えがなかったからです。それから彼はわたしに,男性の洗い清めの儀式の言葉にとても注意深く耳を傾けるよう,かなり強く指示しました。その儀式の言葉は真理を擁護するに当たり行わなくてはならないことでした。その言葉はここでは申し上げませんが,わたしは洗い清めの儀式を行う際には毎回それらの言葉について考えます。

今度は1974年に話を進めましょう。イングランドに戻り,『リバプール・デイリーポスト』の編集者として働いていたときのことです。ある日,イングランド・リーズ伝道部の会長であるロイデン・デリック会長から電話がありました。その伝道部はイングランド北部全体を管轄していました。彼は北東沿岸にある町,ハルにいるとのことでした。その町はリバプールのほとんど真東にあります。そこで会長は,他の宗派の聖職者による教会を批判する手紙が地方紙に載っているのを見たとのことでした。会長はわたしの専門を知っており,わたしがそれについて対処する方法を提案できるのではないかと思っていました。わたしは数分かけて,その地方紙宛ての優しくなだめる調子の手紙をしたため,わたしたちが本当に教えている事柄を知りたいと思う人は誰でも訪れることができるよう,「きてごらんなさい」と書き添えました。わたしは知りませんでしたが,その手紙は正式に印刷されました。このことから,わたしは40年以上にわたり教会の広報にどっぷりと浸かる旅に乗り出すことになったのでした。

2年後,わたしは教会から要請され,新たに開設されたロンドンの広報事務局を管理することになりました。3年後,シドニーを拠点にした太平洋地域を担当する広報事務局を開設するために教会の要請でオーストラリアに戻りました。それから24年間にわたり,わたしはここ,教会本部にいました。

この40年で何が変わったでしょうか。今日でも尋ねられている疑問に関すれば,思っているよりも変化は少ないでしょう。事実,疑問の多くはわたしがリバプールの図書館で直面したものとほとんど変わりません。ジョセフ・スミスの時代に提議されたものと同じなのです。すなわち,モルモン書,証人たち,翻訳工程,啓示の性質,ジョセフ・スミスの個人的な歴史についての真実性です。おそらく驚く必要はないのですが,LDS.org上のさまざまなテーマに関して掘り下げた一連の論文の結果として,ジョセフ・スミスの最初の示現に関する複数の記事のような,非常に多くの忠実な会員がその生涯の会員生活において初めて目にした事柄に驚きを隠せずにいたことに,わたしは少々驚かされました。教会の会員ではなかったわたしでさえ1967年に容易に手に入る資料を読んでいたため,わたしはほとんどの会員が同じような資料を読んでいるものとばかり思っていたのです。例えば,『エンサイン』に先駆けて,『インプルーブメントエラ』の1970年4月号には,最初の示現についての当時の8つの記事に関する詳細な論文が掲載されていました。

他の点で,この数十年で変化したことも多数あります。例えば『ジョセフ・スミス文書』や若く聡明で新進の歴史研究者による洞察力のある作業など,世界的レベルの歴史研究方法や莫大な量の研究資料や今日すぐに手に入るリソースのことだけを言っているのではありません。具体的にはインターネットにより構築された環境やソーシャルメディアのことを主に指しています。これらは課題と機会の両方をもたらしたとわたしたち皆が認識しています。教会広報にとっては,賛否両方の声の急増は,わたしたちの全ての作業を同時に厳しくも刺激的なものにしました。例えば,わたしは普遍的な人権としての宗教の自由に対する教会の情熱的な決意に強い関心がありますし,『ジョセフ・スミス文書』の最新巻の発表で今週再び証明されましたが,教会の透明性の向上を称賛します。

わたしたちは公共の問題の最先端にいる場合が多いので,本日は教会広報がどのように機能しているかについてのより深い理解を提供したいと思います。その後,作業工程を説明するために,かなり話題になった幾つかのテーマについて,幾つかの視点を紹介したいと思います。わたしはこの考察を「公表前提」と呼ぶことにしました。なぜなら,ある事柄についてはまだ十分明らかに語られていない,または見落とされたり誤解されたりしてきたと思ったからです。わたしは本日,例えば人種問題や一夫多妻制や,より優れた話者が話すであろうその他の疑問のような,何度も繰り返されるテーマについての新境地を開拓するわけではありません。最後の10分間は質疑応答に残しておこうと思います。皆さんにはこれから30分程度で質問をカードに書き,アッシャーに渡していただければと思います。わたしが答えられるよう,質問は広報に直接関係のある事柄に絞ってください。(ですので,わたしは失われた10支族がどこにいるのか知りません。夜中の1時に会員から電話を受け,全く同じ質問をされたビショップのことは知っていますが。そのビショップは次のように鋭く返答しました。「皆ベッドにいると思いますよ。」)

広報はどのように組織化されているか

教会の広報活動は,教会広報委員会によって監督されています。この委員会は十二使徒の一人が議長を務めます。その他の中央幹部または中央役員には七十人の先任会長,管理ビショップ,教会の顧問弁護士,女性の中央役員の一人,広報部の管理ディレクターとして奉仕する別の七十人が含まれます。管理ディレクターは,特に戦略的な計画立案に関する事柄において,わたしと一緒にかなり密接に働きます。さらに,わたしを含め,何人かの上級広報職員は,毎週の委員会に出席します。

まず公表を前提にしたいと思うのはこれです。広報は独自の議題を持っているわけではなく,中央幹部からも独立している。わたしは日常的に十二使徒や管理ディレクターとともに働いています。週2回の十二使徒との定例会議に加え,わたしたちはしばしば,毎日数回話しています。管理ディレクターとともに,毎月十二使徒定員会全員に対してプレゼンテーションを行い,使徒たちから指示を受けます。時折,専門スタッフの一員がプレゼンテーションを行い,助言を受けます。わたしがこのことを話すのは,わたしたちはときどき,広報があれやこれを行う理由を説明しろと要求するのが大好きな一部のブロガーから石を投げつけられることがあるからです。一人のブロガーは最近広報を「ならず者部門」とさえ呼びましたが,これは中央幹部にとってもニュースとなるでしょう。ニュース速報―わたしたちは自由契約では働きません。

悲しいことに,大量の批評を書くことを愛する人の洞察と理解は,しばしば彼らが書く言葉の量に反比例しています。おそらく,教会指導者を批判するよりも失礼に当たらないと思い,広報を標的にする方が単に簡単だということなのでしょう。もしそうなら,わたしたちはこれらの「悪意に満ちた批判の嵐」を名誉として受け止めます。ずぶとい神経は広報雇用のための前提条件です。このことは,わたしに使徒行伝のすばらしい聖句を考えさせます。大祭司と議会がペテロと使徒たちを脅そうとし,むち打ったときのことです。使徒行伝5章41節にはこうあります。「使徒たちは,御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら,議会から出てきた。」そして次の節は,ほとんど挿話として次のように記しています。「そして,毎日,宮や家で,イエスがキリストであることを,引きつづき教えたり宣べ伝えたりした。」(使徒5:41-42)

広報職員が承認を得ずに教会に代わって声明を出すようなことがあれば,近いうちに首になることでしょう。もちろん,わたしたちは最新の問題についての対応を頻繁に提言することはありますが,中央幹部はそれらの声明を修正したり拒絶したり,または自分たちが独自で声明を書くことを躊躇するようなことはありません。さらに,広報委員会の議長を務める十二使徒は,主要な問題についてはその他の十二使徒の会員と,または大管長会と協議します。わたしたちの任務は,中央幹部の心の思いを最も正確に反映する言葉を見つけることです。職員側の個人的な利益が入る余地はありません。

わたしはこの点についてさらに時間を取りたいと思います。なぜなら,それは非常に重要であるからです。聴衆の皆さんはおそらく理解されているでしょうが,もし理解されていない場合に何が起こるのか例を挙げてみましょう。今年の初めに,教会はバランスの取れた公正な方法で宗教的権利と同性愛者の権利を処理した法案を通過させるようにユタ州議会に要求するため,記者会見を開きました。三人の使徒たちがその記者会見に出席し,L·トム·ペリー長老は後に知事や他の地域社会の指導者とともに法案署名式に出席しました。一部の人々はそのメッセージの正当性に実際に異議を唱えました。そこには「たった」三人の十二使徒しかおらず,他の十二使徒も大管長会もいなかったからです。たぶん,これらの三人の使徒も「ならず者」なのでしょう。このことはわたしに「ぶよはこしているが,らくだは飲み込んでいる盲目な案内者たち」に対する救い主の批判を思い起こさせます(マタイ23:24参照)。

その他の通信,例えばモルモンニュースルームについてはどうでしょうか。ニュースルームや広報部のFacebookやYouTubeチャンネルは,わたしたちが重要なニュースや最新動向を発信するために使用する主要な通信媒体の一つです。掲載されているものの大部分は日常のニュース記事を扱っていますが,このような記事でさえ教会コーリレーション委員会の承認を得ずに掲載されることはありません。この委員会には,全ての教会の通信が教義的に正当で一貫していることを保証する責任があります。わたしたちの業務の性質上,わたしたちが最新のニュースや重要なテーマについての声明を扱っている場合,コーリレーション委員会はわたしたちを優先してくれます。とは言うものの,そこには抑制と均衡の制度があり,教会の会員が読んだときに高い水準で心地良さを感じられるよう,ニュースルームの記事はよく吟味されています。わたしたちは絶対に正しいのでしょうか。もちろん,違います。時には声明文やインタビューにおいて間違いを犯したり,まさに適切な言葉を選べなかったりすることはあるでしょうか。きっと,あるでしょう。しかし,皆さんは,わたしたちが教会を運営しているのがどなたであるか知っており,確立されたプロセスに対して敬意を抱いていることがお分かりになるでしょう。

「擁護する」対「推進する」

わたしには「福音を擁護する」機会があるだろうと言ったときに祝福師が選んだ言葉にも関わらず,わたしには「擁護する」よりも使いたい言葉があります。もし守勢に回る試合しかない場合,わたしたちが最も望むのは引き分けです。非友好的な声による攻撃や批判の下にある場合には非常に困難になることがありますが,釈明しているように聞こえないようにすることが重要です。ある考えや概念や原則をさらに説明したり推し進めたりする方がよいのです。例えば,モルモン書のミュージカルが最初に明るみに出たとき,冒瀆的で,下品な罵りがあったにも関わらず,わたしたちは原則を教える,受け身でない言葉を選んで発言しました。最もよく引用されたわたしたちの回答は次のとおりです。「モルモン書ミュージカルは,とある夕べに聴衆を楽しませることができるかもしれませんが,聖典としてのモルモン書は,人々をキリストのもとへ近づけることによって,人々の人生を永遠にわたって変えるでしょう。」皆さんの多くが御存じのように,わたしたちもこのショーのチラシに広告を出しました。このショーを見た人々に今度は「モルモン書を読む」よう勧めるものでした。

わたしたちの愛するものが軽視されている場合,釈明しているように聞こえることを避けるのは容易ではありません。これは中央幹部自身の批判にも当てはまります。個人的には,中央幹部への常習的な批判は最も有害な気晴らしの一つだと考えています。ですので,これについて少し時間を使わせてください。わたしはここで「中央幹部」という用語を使いますが,それは聴衆の皆さんが末日聖徒であり,その用語が通常意味するところ,すなわち,教会の幹部の兄弟たち,特に大管長会と十二使徒を示していることを全員御存じだからです。わたしは世の中のメディアに対して話すときにはその用語を避けるようにしています。なぜなら,末日聖徒ではない人の耳には奇妙で,時代遅れにさえ聞こえるからです。ですので,わたしはたいてい,代わりに「教会指導者」という用語を選びます。

記憶が正しければ,わたしが最初に中央幹部に非難の矛先が向いたのを見たのは英国人ジャーナリストからによるものだったと思います。彼は,わたしが教会のロンドン広報事務局を管理していた際に訪れた使徒と面会するよう招いた人でした。彼は,イエスはロバに乗っていたというのに,大西洋横断ジェット機に乗る教会指導者を正当化することができるかと尋ねてきました。わたしは,大西洋横断ロバが発明されたら,すぐにでも喜んで使うだろう,と答えました。その言葉はわたしのオリジナルではないかもしれません。どこかで聞いたことから拝借したのかどうか,もう覚えていませんが,その不条理な質問に対処するものに思えました。わたしは,中央幹部がその業を行う動機について人々が疑問を持っているのを聞いたり,金銭的な報酬や動機が幾らかあるからだろうとほのめかしたりするときに,ほとんど信じられない思いがします。

現実を紹介させてください。全ての中央幹部がビジネスマンではありませんが,ほとんどは使徒に召されるときまで,非常に成功した経歴を持った人々です。かつてスペンサー・W・キンボール大管長が指摘したように,人々や組織を導く能力は,何百万もの人々を擁する教会において単に役に立つ以上の属性です。霊的な深さと福音についての豊かな理解が組み合わさったときには特にそうです。なぜなら,中央幹部の幾人かはビジネス上の経歴において非常に成功してきたため,十二使徒になってからの報酬や手当は,文字どおりそれまでの収入に対する什分の一よりも少ないのです。

中央幹部の幾人かは教育者でした。スコット長老は原子物理学者,ネルソン長老は心臓外科医でした。幾人かは非常に成功した弁護士でした。現在,十二使徒には3人の元大学長がいます。ボイド・K・パッカー会長も職業教育者でした。とは言え,もっと若い頃や余暇には,木で美しいものを彫るのが大好きだったのです。それは不思議なことに聖典でたたえられている別の職業,すなわち,大工に関連しているように思われます。

十二使徒に召されるということがどのようなものか想像できますか。ほとんどの場合,あなたは既に成功した経歴を持っています。あなたはこれからもボランティアの立場で教会に奉仕し続けると思っていますが,同時に将来引退することについても考え始めています。大管長会と十二使徒は,もちろん,引退しません。解任されることもありません。その召しには,残りの人生,毎日働くことになるという確かな知識が伴います。90歳代に入ってさえ,文字どおり倒れたり心と体が疲れ果てたりするまで働くことになるのです。仕事は早くに始まり,午後5時に終わるわけではありません。十二使徒は月曜日が休みですが,この月曜日はたいてい週の残りの日のための準備に当てられます。週末に割り当てがある場合,しばしば金曜日の午後には移動します。80歳代になってさえ,定期的に国際的な大会で話したり,指導する責任を受けたりの厳しいスケジュールに直面しています。

家にいるときはどうでしょうか。わたしはほとんどの中央幹部の携帯電話番号を知っています。時折,夕方や,週末や,幹部の外出時に連絡を取る必要があるからです。そのようなことをする教会役員はわたしだけだと思うほど,わたしは単純ではありません。ですので,幹部は休息時間にでさえ次々とじゃまが入るのです。わたしはいつも,家にいるときにじゃますることを謝ってからそのような電話をします。このような電話をすることで叱責されたことは一度もありません。幹部は常に親切で,安心感を与えてくれます。早朝や深夜でさえそうです。

毎年主な休みになるのは,6月最後の伝道部会長セミナーが終わってから7月の終わりまでです。この期間は休暇として意図されているものの,中央幹部のほとんどは,とりわけ10月の総大会とその説教の準備に思いを向けるためにこの時間を使います。クリスマス休暇の間は,同様に4月の総大会に向けて準備します。一人一人がテーマを決定し,自分のメッセージを作り上げるのに特別の注意と時間をかけています。草稿を練りに練って仕上げる間,幹部にはこの工程が何か月にもわたり重くのしかかっているのです。

これは誰もが願う予定ではありませんね。しかし幹部は潔くそれを担い,圧倒的に重要な理由のために喜びを見いだしています。その喜びとは,世の救い主の証人となるという証と決意,そしてあらゆる場所にいる神の子供たちを強めるという願いです。ちょうどわたしたちが新約聖書の使徒たちを指し,すぐに不完全な人々だということが理解できるように, 幹部は自分自身の過ちや欠点に真っ先に気づくことでしょう。

わたしが福音書や使徒行伝,または地中海沿岸に散らされた会員のいろいろな一団に宛てて使徒によって書かれたさまざまな手紙を読むとき,特別な男性たちをかいま見ます。確かに,個々の欠点を持つ男性たちです。しかし,わたしはペテロを,衝動的な性質があったとか,キリストを知っていると断言できないほど心が揺れていたなどというような,批判的なレンズを通して見ようとは思いません。わたしはペテロをその生涯の不毛の時期にこそ認めます。ペテロは試練や嵐に耐え,聖書の歴史において突出した人物の一人となり,その名前と成果は2千年にもわたって根強く残ったのです。同じことは,他の多くの古代の使徒たちにも言うことができます。おそらく,特にパウロの人生は,迫害する者から迫害される者に変わりました。そして今日も,わたしには福音が回復されたという証があるので,中央幹部を同じように理解しています。そうです,幹部も一人の人間であり,死すべき人間ですが,主は,わたしにではなく,中央幹部に教会を導き,厳しい決断を下す外套を与えられたのです。わたしは中央幹部をもてはやしているわけではありません。使徒と握手したからといって畏れかしこまりすぎているわけでもありません。しかし,わたしは心の底から中央幹部を支持しています。また,わたしには個人的な経験とそこに身を置くことから生まれた,教会は信頼できる人々の評議に委ねられているという静かで心強い自信があります。

大きな問題

中央幹部が大きな問題と格闘しなければならないことは確かです。今度はそのことに目を向けてみましょう。だいたい持ち時間の半分ほどが過ぎましたので,質疑応答の前に,たぶん3つ4つの問題について話す時間があります。同性愛者の権利の現われが大変大きな問題になっているため,それが教会にとって,特に宗教の自由に関連して,どのような意味があるのか,少しお話しましょう。

また,反対意見や宗紀評議会,また現在LDS.orgに掲載されている詳しい教会の論文についても少しお話します。そしてどのような原則が広報のメッセージを形作り,発信するに至っているかを説明して終えようと思います。

教会広報で長い間働いてきた利点の一つに,慣習化された記憶からくる長期的展望があり,ときにそれは意義のあることです。教会において同性愛的な行動は節度がないと表現するような言葉が使われていた時代は,確かに,さほど昔のことではありません。そのことについてはこれからすぐにもっとお話ししますが,基本的な事柄は変わっていません。婚姻外での性的関係は,神の律法により,道徳的に間違っています。同性者との性的関係も,それと同じ標準により,間違っています。教義は変わっていませんが,それを伝える方法が大幅に変わったのです。

ここにいるほとんどの皆さんが「現代的な考え方」という言葉を理解されるでしょう。ウェブスター辞典によれば「現代の態度や経験によって支配される過去に対する態度」と定義されています。現代的な考え方は共通の問題です。過去を掘り下げ,時代の規範を反映する声明を見つけるのは簡単です。ただし,その声明はその時代に述べられたもので,現代に適用するのは正しくありません。皆さんの中に,最も巧みで攻撃的でない現代風の言い回しで自分がかつて言ったことを撤回し,削除したくないという人はいますか。

疑いもなく,教会が同性愛支援者の権利運動に関わる際,過去数年間にわたってより慎重かつ思いやりのある言葉を選択してきました。わたしが述べたように,このことは性別や結婚と家族の目的,また罪を構成する事柄についての教義的な理解における変化を反映するものではありませんが,教会指導者のより深い理解と意識を反映しています。

そのことを認めながらも,中央幹部が数年前にこれらの取り組みについて無知だったと仮定することは間違っています。わたしは特に十二使徒のクエンティン・L・クック長老のことを考えています。長老はエイズ禍が大発生した1980年代に,よりによって,サンフランシスコでステーク会長を務めていました。わたしたちがこのテーマについて録画インタビューしたとき,わたしはクック長老とともにいました。エイズを患った数人の同性愛の会員が最後の日々を送れるよう助けたときの経験によって,長老が深く心を打たれたことは明らかでした。同様に,別の中央幹部が,この非常に難しい問題を舵取りしようとしながらも引き裂かれてしまった,同性愛者を持つ家族をはじめとするさまざまな家族に対して心に感じている痛みについて語るのを聞いたことがあります。

社会の中で同性に魅力を感じることがさらに話されるようになるにつれ,わたしたちの純潔の標準は依然として変わらないままでありながら,変化していく聴衆に語りかけるために,わたしたちの言葉遣いは変わりました。異性のカップルの結婚前における同棲にも同じことが言えるかもしれません。わたしたちはそれを好みませんし,思いとどまらせますし,若者たちには結婚前の純潔について教えます。しかし,今日のほとんどの世の中にさまざまな,刻々と変化する標準や価値観があるという現実も理解しています。そして,世間にとっては耳障りな教会からの声がそのような態度を改めるようなことはしません。

2012年の大統領選挙の終わりに向け,広報では「mormonsandgays.org」というウェブサイトを用意しました。このサイトには十二使徒とのインタビューが幾つか掲載されています。このサイトが立ち上げられる前には,中央幹部による最も厳しい精査がありました。実のところ,このウェブサイトには複数の目的がありました。教会の会員が所属政党の大統領指名候補だった選挙戦が白熱する中で,わたしたちは「同性愛の問題」がある時点で選挙戦に巻き込まれる可能性が高いと思いました。わたしたちは2008年以来ずっと同性婚を禁じた条例に取り組んでいたことについて,ありとあらゆる偽りの陳述と歪んだ視点に直面することになりました。しかし,このウェブサイトは,性的少数者または同性に魅力を感じる会員の体験を受け入れる機会ともなりました。

末日聖徒の家庭の中には,10代の若者が同性愛者であることを両親に「告白」したとき,互いの理解を追及するという思いやりのある,あるいは思慮深いものとは程遠い反応を示す家庭もありました。極端な場合,家から追い出された若者もいました。ホームレスや貧困者でいることは,そのような若者を麻薬密売人,売春,その他の下劣な体験の餌食にし,中には自殺にさえ追い込むケースもあります。わたしはそのような行動を容認した教会指導者を全く知りませんが,これらの問題についての認識は指導者間でも,もちろん一般の会員の間でも,共通のものではありませんでした。立ち上げ前に中央幹部により注意深く吟味されたMormonsandgays.orgは,不道徳な行為を容認はしないまでも,自分の子供,兄弟や姉妹を受け止める両親や他の家族を励ますことを通して,この問題に対処するよう設計されました。

これは引き続き難しい問題となっています。教会は現在mormonsandgays.orgのさらなる開発に取り組んでいます。バージョン2.0は来年初めに完成し,立ち上がる予定です。その一方で,このテーマは自然と関連するテーマにつながっていきます。それは性的少数者の権利対宗教の自由に関する教会の立場です。

同性婚を禁じた条例についてさえ,教会は早くも,住宅供給,雇用,検認,通院などの分野を対象にした,家族に脅威を与えない性的少数者の人々に対する権利拡大に反対しないことを公言しました。その条例が持つ問題点は,結婚を再定義するという取り組みでした。それも初期の頃に,中央幹部が同性結婚を合法化することは宗教の自由に多数の課題をもたらすという見解を強く述べたのを覚えています。その点については実に先見の明がありました。もしあなたが宗教的な権利に対して予測される脅威に関して,性的少数者の権利の支持者と多くの宗教団体との間に生じている大きな文化的衝突を認識していないなら,わたしはそれが今日の大きな社会問題の一つとなりつつあると断言することができます。

このテーマについて必要以上にさらに深く掘り下げるのは本日のわたしの領域を超えていますが,多くの性的少数者の支持者が宗教の自由について語っている事柄をざっと読むだけでもハッとさせられます。最近も米国ボーイスカウトの全国執行委員会によって同性愛者のスカウト指導者を認めるという決定があったばかりです。性的少数者の主要な権利擁護団体の一つによる人権運動で,それは有意義な「第一歩」であると言われていました。これが意味するところは,全ての教会が隊員の中に同性愛者のスカウト指導者を受け入れることを余儀なくされるまで,彼らは満足しないということです。このスカウト問題が起きる前ですら,この論争のむこう側につく多くの人々は,社会的に受け入れられていようがいまいが,性的少数者の定義を満たさない宗教大学から大学認定を剥奪するようやかましく要求していました。教会から免税措置を剥奪するというのが最近新たに起こった別の検討課題となっています。

教会の対応は自制,合理性,キリストのような行動の模範となっています。神の子供たちに対する御父の計画やこの地上での人生の目的を少しも放棄するわけではありませんが,性的関心を表現する方法を含め,教会は,例えばわたしが述べた公正な住宅供給,雇用,その他のサービスなどに対する性的少数者の要求についての正当性を認識しています。さらに,宗教の権利と性的少数者の権利の両方に対する公平な取り扱いに関して,先の1月の記者会見における教会の公開要求なしには,今日ユタ州が両方の権利を守る法律を持つことはなかったでしょう。

今後も教会はこの類のバランスを主張し続けることでしょう。これについて全ての会員が理解するのは簡単ではありません。単に魅力を感じること自体は罪ではないにも関わらず,古臭い慣習で物事を見る人や,性的少数者に対する思いやりを示すことが罪を容認するのに等しいと信じる人もいます。

たとえどんなものでも,最近の差別的でない社会的慣習がこうあるべきだと言うものに教会を作り変えたいと思っている人もいるようです。その結果,教会内部,特に青少年やミレニアル世代 (訳注――1980年から1990年代に生まれた世代)の会員,すなわちヤングアダルトの間で,このテーマについて多く教えられる必要があります。賢明にも,中央幹部は,全ての人々に対するキリストの包容力と愛を見習いながら,教会の教義を忠実に守る進路を決定します。

会員はこのテーマに関して自分自身の見解を持ち,これからも教会に忠実であり続けられるでしょうか。この質問をしばしば耳にしますが,いろんな状況から発せられています。会員は民主党員でありながら善良なモルモンでいられるでしょうか。この質問に微笑まずにいられません。なぜなら,もしその質問をした会員が世界のどこかの国に赴き,その国の共産党に属している教会の忠実な会員に会ったとしたら,彼らの血圧に回復不可能な損傷を与えるのではないかと恐れるからです。女性の権利を認めながら善良なモルモンでいられるでしょうか。賛美歌集は改訂された方がいいでしょうか。3時間プログラムの一瞬一瞬が全て霊的だと思えないとしたら,わたしは背教への道を歩んでいるのでしょうか。

ふざけているつもりはありません。なぜなら,幾つかの質問は他のものと比べて重要であることを知っているからです。わたしがお伝えできることは,このテーマに個人的に取り組む方法についてだけです。わたしは教会が知的に束縛するのを見たことがありません。わたしたちの教会には非常に多様な会員がいます。わたしたちはユニットがある全ての大陸で,教会の会員と時間を費やしてきました。末日聖徒であることで最もワクワクする側面の一つは,わたしたちは多様ではあるものの,一つにまとまった世界規模の家族に属しているという感覚です。わたしはイギリス人なので,正直なところ時折フランス人を冷やかしますが,それはイギリスの市民権に付き物の義務のようなものです。(実際,わたしはアメリカ独立戦争で間違った側を支持した人々を許したことがありません。)そして,もちろん,フランス人はイギリス人に対して同じ様な対応をするのです。しかし,もしわたしが飛行機でフランス人の末日聖徒の隣に座ったなら,すぐに親近感が湧きます。国家や文化の違いが消滅するのです。末日聖徒でない同国人よりも,そのフランス人とはるかに多くの共通点を持っています。その同国人がわたしと故郷や学校が同じで同年齢の人だったとしてもです。末日聖徒として,新たに出会ったフランス人とすぐに知り合いとなり,最も重要で核心となる価値観や経験を分かち合います。また,わたしたちは現世と来世について明白で同じ願望を持っています。わたしたちは末日聖徒として,実際には,もはや異国人でも宿り人でもなく,全ての国境や文化を越えた王国における同じ国籍の者であるという確信を持っていることに満足しています。

わたしはフランス人の座席仲間が,自分の人生の生き方についての微妙な解釈におけるわたしの見解に正確に適合しているかを確認することに興味を持っているでしょうか。わたしたちは互いに自分たちの霊的な旅において全く同じ視点に立たなければならないと主張しているでしょうか。または,主のように,個人的な解釈や成長と理解のための余地を確保するでしょうか。

友人が,わたしは彼の方法全てを解釈していると主張し始めたり,または中央幹部は会員を間違った方向に導いていると入れ知恵してきたり,あるいは自分を友人以上の存在に高めようとしながら,むしろ招かれざる教師になってしまっているときだけは,彼の方向性について心配になります。もし彼が,中央幹部が間違っていることを証明し,その助言に抵抗するために自分のブログや公共のデモについて語るなら,わたしは教会指導者が,そうすることを望まなかったとしても,その影響力に対抗することを期待するでしょう。もし優しさと穏やかな説得と偽りのない愛によって彼のたくらみが失敗したことを証明した場合,わたしは彼の永遠の将来のことを心配するでしょう。しかし,わたしは異なる考えを持つ彼の権利を否定しないでしょう。わたしは教会の多様性を愛していますが,結局のところ多様性が一致をしのぐとは考えていません。「もしもあなたがたが一つでなければ,あなたがたはわたしのものではない。」

わたしが確かに知るかぎりでは,大管長会と十二使徒は宗紀評議会の結論を指図することはなく,むしろそうすることを慎重に避けています。実に,上告審判所としての大管長会でさえそうすることはできません。独立を保っていなければならないのです。教会の方針では,そのような評議会を開催するかどうか,そしてそこから導き出される結論の両方について,決定はビショップとステーク会長に任されています。もちろん,ステーク会長は神権ラインの上位となる地域七十人に評議の進め方についての助言を求めて相談することができますが,決定や結論について相談することはできません。

最近,宗紀評議会,またはビショップとの面接が同時に開かれたため,中央の指示ではないかという憶測がありました。これは事実無根ですが,理解するのに精神鍛錬など必要ない,単純でもっともらしい説明があります。中央幹部は,全ての七十人定員会をはじめ,総大会の直前,6か月ごとに訓練のために教会本部に来ています。長年にわたり,これらの訓練集会では幅広い多様なテーマを採り上げています。もし教会の手順に添って宗紀評議会を開く方法がこれらのテーマの一つである場合,実際最近そうだったのですが,その訓練がステークやワードレベルにまで降りていくにつれ,一部の指導者たちの中に,助言を必要だと感じる会員と関わるために良く準備できたと感じる人がいるのは驚くに当たりません。これは特に教会の方針または教義に反する変更を求めるために会員が公に運動しているときに起きる可能性があります。率直に言って,わたしはそのような相談の増加があったかどうか分かりませんし,もしあったとしても,正確な理由を特定しているかどうか分かりません。しかし,全ての変化の気配の陰にある陰謀を見つけることは,健全ではありませんし,ほとんど正しくありません。

LDS.orgに掲載されている,ある会員にとってはチャレンジと思えるテーマについて深く掘り下げた論文について話すと約束しましたね。正直に言うと,これについてはあまり語るべきことがありません。LDS.orgで受け取ったフィードバックによれば,一部の会員から,その論文は主要な発表よりも,もっと目立つ場所に置かれるべきだという提案がありました。その価値以上に注目されたと考えている会員もいます。全体的には,初めからもっと人目を引くべきだったという議論には価値があると思いますが,この件についてはさらに多くの背景があります。公開されたとき,確かに幾つかの論文はかなり報道されました。教会の発展を綿密に観察する人々は,家庭での研究や学習に,日常生活にこのような学習を組み込む安息日の遵守に,そして充足感と支援のためにこれらの論文を含む多くの資料を生かすますます柔軟な教科課程に,さらに重点が置かれるのを見ることでしょう。これらの論文はLDS.orgで1回読むだけの経験にはしてほしくない,むしろその内容や原則は学習という大きなタペストリーの中に組み入れてほしいというのが教会指導者の意図です。特に青少年にはそうしてほしいと思っています。

これらの論文の発表に先立ち,その長さの決断を始め,多くの話し合いが行われました。あるときは,50ページの論文やそれ以上に長いものを想定し,あるものは大規模な脚注付きで起草されました。しかし,問題の内容について精通している学者以外,そのような重労働を行ってくれるような一般の会員はほとんどいないことが分かりました。そこで別の選択肢,すなわち簡単な2,3ページの注釈にするということが考えられましたが,これでは不十分で,明白性を持つという主要な基準を満たせないと思われました。これらの審議の結果は,現在LDS.orgに掲載されているものです。一般的にこれらの論文は好評を博しています。非常に有能な末日聖徒の学者が最初の草案を作成したのですが,それらは教会歴史部の職員や他の学者によって大量のレビューが行われました。そのレビューは大管長会の承認を得る前に,精度とバランスを確認するため,十二使徒によって厳格な読み取りが続きました。

さて,ここで話をまとめて質疑応答に移りましょう。わたしは先に,釈明したように聞こえないようにすることの重要性について話しました。今日,わたしの話したことが釈明しているかのように聞こえなかったことを願っています。広報活動を職業とする人からこのようなことを聞いたら少し驚かれるかもしれませんが,最終的な考察で締めくくりたいと思います。

広報委員会の議長でもあったニール・A・マックスウェル長老は,長老が「広報の中心的ジレンマ」と呼んだものについてよく話したものです。 わたしたちは人々がわたしたちの良い行いを見られるよう自分の光を輝かせているでしょうか。あるいは,この世の称賛のために人々の前に施しを行っているように見える危険を冒しているでしょうか。

今日,わたしたちは別のジレンマを抱えています。広報部の核心となる役割は,教会の使命を助けたり妨げたりすることのできる影響力を持ったオピニオンリーダーと関係を築くことです。わたしたちはその目的を伴って社会において多くの良い行いをすることができます。それによって他の教会や,異なるタイプの政治的指導者や,性的少数者やその他の地域社会の指導者や,その他大勢の人々と関係を持つようになります。

同時に,古代の教会は本質的に反体制文化的でした。その意味は,社会的慣習や確立された機関に対してしばしば抵抗していたということです。イエスは羊について多くのことを話しましたが,羊のように行動したことは決してありませんでした。イエスは社会規範に挑戦し,上流社会から拒絶された人々と関係を持ち,偽善的な振る舞いが見える場合は権力層と対決しました。使徒たちも福音の真理を教えるために何度も何度も大胆に慣習に挑戦しました。

異なったものの見方をする教会外の人々のいる世俗的な世界で関係を構築しながら,世俗主義の蔓延や組織化された宗教に所属しないという流れに抵抗するという,これら二つの一見矛盾する原則のバランスをどのように取ればよいのでしょうか。

これらのことやその他の難しい問題に対する答えは,全ての状況の中でイエス・キリストに従うことにより見いだせます。これはわたしたちに与えられた主要な命令,第一の指令です。わたしたちの教会は救い主の御名を冠しています。これは主の教会です。その教えは主の教えであり,わたしたちはイエスの教えを模範として生活しようと努めています。それゆえ,教会からのメッセージは常にそのことを念頭に作り上げなければなりませんし,教会の活動は常に言っていることと一致していなければなりません。わたしたちが行う全ての決定と,わたしたちが進める全ての提案において,それを引き続き念頭に置くよう努めています。救い主ならどうされるでしょうか。フェアモルモンに関連するこれらのことは,特に,救い主が特定し論争や対立を避ける類の言葉を使う義務を負っています。わたしたちは6つの単純な原則を特定しました。それはわたしたちの立場を擁護するよりも,むしろ主張するものです。それは以下のとおりです。

1.わたしたちは神に対する信仰を持ち,イエス・キリストの福音の原則に従った生活をするよう努めるとともに,自分の人生と他の人々の人生に喜びをもたらす,神の子供たちに対する神の計画を受け入れています。

2.わたしたちは家族の強力な支援者であり,強く永続的な結婚と出産の擁護者,高い道徳的価値観をもつ良い教育を受けた子供たちを育てることを擁護する者です。

3.わたしたちは,宗教の自由,個人の選択の自由と道徳基準の選択を尊ぶこと,礼拝の自由とわたしたちの信仰を分かち合う自由を含め,自由に価値を見いだすとともに擁護します。

4.わたしたちは,個人の誠実さと信頼性,その他のキリストのような属性をはじめとする,強力な道徳的価値観を守り,それに従って生活するよう努めます。

5.わたしたちは,同じ信仰を持つ人々だけでなく他の信仰を持つ人々を含め,他者に奉仕します。慈愛,または仲間である男性や女性に対する愛は,喜びの源です。

6.わたしたちは福音の贖いの力を通して人生をより良いものに変えることができることをはっきり示せるよう努めています。わたしたちはこれを信仰,悔い改め,贖いという観点から考えています。

これらが,今日わたしたちが直面している問題や課題です。御清聴ありがとうございました。イエス・キリストの御名により申し上げます。

書式ガイドの注釈:末日聖徒イエス・キリスト教会に関する記事で,教会の名称を最初に引用する際には,正式名称を使うようお願いいたします。教会の名称の引用に関する詳しい情報は,こちらへ: 書式ガイド書式ガイド.