ニュースリリース

バーバラ・バラード姉妹がソルトレークシティで逝去

地元で称賛された使徒M・ラッセル・バラード会長代理の妻

末日聖徒イエス・キリスト教会十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード会長代理の妻バーバラ・ボーエン・バラードが2018年10月1日、愛する家族に見守られながら静かに息を引き取った。享年86歳。バラード姉妹はアルツハイマー病を始め数々の健康問題を長年抱えていたが、持ち前の寛大さとユーモアで病と闘っていた。

 

バーバラ・ボーエンは1932年1月5日、ジェームス・ラッセルとアフトン・ウィルキンスの次女としてユタ州ソルトレークシティで生まれた。バーバラはソルトレークシティのサウス高校で2年間生徒会役員を務め、首席で卒業した。その後、ユタ大学に進み英語を勉強。バーバラは大学でも地元社会でも有名人で人気者であった。若い女性であった時に交流のあった友人とは生涯を通して親密な交友関係を維持した。

バーバラはユタ大学在学中に同大学の学生であったバラード長老と出会い、1951年8月28日にソルトレーク神殿で結婚。

バーバラは7人の子供を愛し、自らを捧げる母親であった。子供たちの名前はクラーク(レアンナ) バラード、ホーリー(ポール)・クレイトン、メリーア(デビッド)・ローパー、タミー(ブラッド)・ブラウナー、ステーシー(ハル)・マードック、ブライン(ピーター)・ハンツマン、クレイグ(メリッサ)・バラード。バーバラは長年家族を大切にし、彼女の優しさによってバラード家は、子供たちと子供たちの友人たちにとって居心地の良い場所であった。

バラード会長は、自分の家族の成功にはバーバラの助けが必要であったと愛情いっぱいに頻繁に語っていた。「わたしは正しい神の娘と結婚することができました。バーバラの助けと助言なしには、わたしたち家族の関係はこれほど幸せで満たされたものとはならなかったでしょう。バーバラはわたしたち家族にとって永遠の宝です。わたしたちは彼女の揺るぎない愛と正しい判断力と助言を称えます」と述べた。

バーバラは生涯にわたり、信仰を持って多くの教会の召しやボランティアの責任を果たした。クラスの教師として、また初等協会、若い女性、扶助協会の会長会の一員として奉仕し、友達を作り、友情を築くことに喜びを感じていた。

バーバラは正直な人であった。バーバラを知る人は彼女のことを、奉仕をするときはいつも笑顔を絶やさない人で、それがトレードマークであったという。

バーバラは、バラード会長がビジネスマンとして働いていた頃から、ビショップ、伝道部会長、中央幹部七十人として教会の奉仕するに至るまで、そして1985年に使徒に召されてからも、バラード会長と共に働き奉仕した。

1974~1977年にバラード会長がカナダ・トロント伝道部会長として奉仕している間、バーバラはオンタリオ州の人々、そして伝道部で働く宣教師との交流を大切にした。宣教師たちは彼女を愛し、バラード会長と共に集会や大会に出席することを待ち望むのと同じくらい、バーバラと共にそうすることを心待ちにしていた。バーバラも同じくらい宣教師を愛していた。

2002年、ブリガム・ヤング大学アイダホ校はバーバラの家族に対する献身と、教会と地域社会における無私の奉仕に対し、「模範的なウーマン・オブ・ザ・イヤー」を授与した。授賞式で彼女は女性たちに対し、家庭を聖なる場所とし、賢明な選択を行い、才能を育むように励ました。

未亡人となったバーバラの高齢の母親(アフトン・ボーエン)がバラード家と同居することになったとき、バーバラは15年にわたり母親の介護を行い、母と一緒に住めることを感謝する言葉を頻繁に口にした。共に笑うことを楽しみながら、家族は同居生活を大切にした。

バーバラが一番望んでいたことは、愛情あふれる妻であり、母であり、祖母となることであった。彼女は自分の子供、43人の孫、90人の曽孫が自分の元に来て、問題や悩み事に対する助言を求めることを喜びとした。バーバラもバラード会長も家族が最も大きな祝福であると考えていた。バーバラは家族を心から愛していた。

葬儀は2018年10月8日(月)の正午、ソルトレークシティ(1320 S. Wasatch Dr.)にあるモニュメントパーク・ステークセンターにて執り行われる。一般向けのビューイングは2018年10月7日(日)の午後5~7時半にラーキン・サンセット・ローン葬儀場(2350 E. 1330 S., Salt Lake City)にて行われる。月曜日午前の一般向けビューイングはない。

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