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「福島ハワイ移民の父」勝沼富造が結ぶ、地域社会と教会との縁

​​​​​​​─19世紀に末日聖徒イエス・キリスト教会へ改宗した日本人─

2011年3月11日の東日本大震災の折のこと。ハワイ福島県人会を中心としたハワイの日系人移民は、福島県の子供たち100人をハワイに招待したり、義援金を集めて福島県知事に贈ったりと懸命に支援した。日系人新聞『ハワイ・パシフィックプレス』によると、700万ドル以上が集まったという。

そのつながりの陰に、19世紀にアメリカへ渡航した福島県出身の勝沼富造という人がいる。勝沼は、日本人の最初期に、末日聖徒イエス・キリスト教会の信徒となった人物である。

 

福島ハワイ移民の父

勝沼富造は1863年,三春藩(現在の福島県田村郡三春町。馬の繁殖地であった)藩士の家に生まれ,東京で獣医学を修める。結婚後,1888年に単身アメリカのユタ州へ渡航する。ブリガム・ヤングカレッジを経て,ユタ州立農科大学でさらに獣医学を研究する。そこで末日聖徒イエス・キリスト教会の会員と交流を深め,1895年8月8日にバプテスマ※1を受けた。その後,アメリカ市民権を取得した勝沼は,ハワイ移民局職員となる。1901年には妻と娘をハワイに迎えて再び家族がまみえた。その後,福島に何度も帰って移民を募集する。獣医としても活躍し,博士号を得ていたわけではないが「勝沼博士」「ドクトル勝沼」と呼ばれて尊敬を集めた。米国社会との架け橋として移民たちの人権を守り、教会員であるなしを問わず、生涯にわたって多くの人々を助けたという。1950年に9月11日、末日聖徒イエス・キリスト教会のホノルルステーク※2タバナクル3で、勝沼の盛大な葬儀を行なったことが当時の新聞パシフィックプレスに掲載されている。勝沼富造は「福島ハワイ移民の父」と呼ばれた。

※1─バプテスマ(浸礼)とは,キリスト教に入信するための儀式。全身が水に沈められて引き上げられる。人の埋葬と復活を象徴している。

※2─ステークとは、天幕を張るためのロープにつないだ杭を意味する。教会では、近隣の幾つかの教会が集まった単位をステークと称する。

※3─タバナクルとは幕屋のこと。転じて、ステークの中心となる、比較的大きくて歴史のある礼拝堂をタバナクルと呼ぶ。

福島県郷土史研究家の作家・橋本捨五郎氏による勝沼富造やハワイ移民についての記事が、東日本大震災以降、何度もパシフィックプレスに掲載され、多くの福島県人移民に勇気と誇りを与えてきた。

          
          

この勝沼富造の顕彰碑が,勝沼の出身地である三春町(郡山市の東側に隣接)の三春国際交流館の敷地に建立され、2017年7月21日に除幕式が行われた。橋本捨五郎氏を始め、三春町長、町議会議長、ホノルル福島県人会会長や勝沼富造の曾孫トーマス・勝沼氏等の親族関係者が列席した。

 

翌7月22日には福島市の「日系ハワイ移民写真展」(福島民報社主催)会場にて、橋本捨五郎氏の「ハワイと福島の物語」の講演が行われた。

その聴衆の中に、郡山男性合唱団ドンカラック団長の佐藤文吉氏がいた。ドンカラックは1990年に設立された合唱団で、日本の幾つもの地方都市やカリフォルニアでの公演を重ねてきた。佐藤団長は、日系人移民に敬愛される勝沼富造について初めて知ったという。

 
            

講演に感銘を受けた佐藤団長は、「東日本大震災・福島第1原発事故復興支援ありがとう演奏会」を計画する。勝沼富造の葬儀が行われたホノルルステークタバナクルで公演したいと思い立ち、郡山の末日聖徒イエス・キリスト教会へ相談する。郡山支部の高橋 亮兄弟※4から福島のシニア宣教師、在米教会員の人脈を通じて、ハワイ州ホノルルステークのステーク会長と連絡がついた。「光栄です」との承認を得て、2019年の7月の公演が決定した。

福島ワード52周年記念会場にて

一方、福島県福島市に、末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師が派遣されて今年で52周年となる。教会の仙台ステーク福島ワード※5では、2018年11月25日(日)に聖餐会、ファイヤサイド※6の二部構成で祝賀会を兼ねた記念プログラムが催された。

ハワイ公演の実現を取り持った縁で、男声合唱団ドンカラックが同記念プログラムに出席、「ふるさと」をはじめ3曲を力強く歌った。

※4─教会では,すべての人が神の子供たちであるとの教えから,男性を兄弟(Brother),女性を姉妹(Sister)と呼称する。

※5─ワードとは、ステークを構成する一つの教会。

※6─ファイヤサイド = 炉端集会。通常の礼拝行事よりもカジュアルなくつろいだ雰囲気で行われる。  

このファイヤサイドでは、橋本捨五郎氏が『福島とハワイをつないだ勝沼富造」と題して話した。

 

橋本捨五郎氏は、郡山図書館で三春藩について調べていた折に、「三春藩士三男富造は獣医学を修めてホノルルにわたり、移民局に勤め、ハワイ移民の父と称された。菩提寺不明」という文を見つけ、大いに興味を引かれた。その後の調査で、当時のパシフィックプレスの記述から、勝沼富造が末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であることを知り、郡山の同教会を見つけて訪問した。

橋本氏の話を聞いた郡山支部の高橋兄弟は、オアフ島の勝沼姓に一軒一軒電話して、ついに曾孫のトーマス勝沼氏と話をすることができた。橋本捨五郎氏はハワイに行き、勝沼富造の娘で100歳になる清水(きよみ)さん宅を訪問する。

清水さんの長男からは写真等の資料を提供された。またブリガム・ヤング大学(BYU)※7 ハワイ校でのインタビュー取材、BYUハワイ図書館、さらにユタ州のBYUプロボ本校にアジア・近東言語学のヴァン・ゲッセル教授を訪ね、歴史研究家のコナン・P・グレームス兄弟に会い、教会歴史部やユタ系図協会(Family Search)から必要な資料を得た。橋本氏は勝沼富造の足跡を訪ね、サンフランシスコ、アイダホ州、コロラド州デンバーにまで取材している。それらの取材を基に橋本捨五郎氏は、『マウナケアの雪』など勝沼富造に関しての書籍を何冊か刊行している。

後に,橋本捨五郎氏は,高橋 亮兄弟とともに,勝沼富造顕彰碑建立の承諾を得るため再び勝沼家を訪れた。

※7─ブリガム・ヤング大学(BYU)は,19世紀に勝沼が学んだブリガム・ヤングカレッジの後身で,末日聖徒イエス・キリスト教会が運営する米国最大級の私立大学である。ユタ州プロボ本校,アイダホ校,ハワイ校と通信制のBYU Pathway program を擁する。

 同ファイヤサイドにて,教会歴史に造詣の深い教会員の福田 真兄弟は「三春出身のハワイ移民の父勝沼富造と教会」と題し、橋本捨五郎氏同様にプレゼンテーションを投影しつつ話した。 

ハワイ15万人の日本人移民の中には、1937年の時点でわずか17人の教会員がいただけであった。その1人である勝沼は,当時から教会員であることを公言して憚らなかった。同年、ハワイ日本人伝道部が組織され、その第1回会合には20人が出席した。4年後、日本人移民の会員数は150人に増える。若い日系2世は1930年代から1940年代に多く改宗した。1941年,真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発すると、ハワイの宣教師数は減少した。しかし、多くの日本人移民たちはハワイの教会に引き続き参加し、1年後には会員数が倍増する。

1960年代、1970年代に来日して活躍したハワイの日系2世の伝道部会長たちは、1930年代から40年代に改宗した初期の会員だった。福田兄弟は、現在の教会の基を作った彼らの原点には勝沼富造がいることを歴史的に解説したのである。

日系2世の伝道部会長として戦後に日本の教会を指導した一人,デビッド・池上は,少年時代の勝沼の思い出をこう語っている。

「父・池上吉太郎は教会に行くとき、いつも老齢の勝沼兄弟を車で迎えに行くのが常でした。ある日曜日の朝,彼の家に行くと勝沼兄弟はシャツの袖を肘までまくり上げて階段を降りて来ました。そして『今日は安息日だと知っているが,今,犬の手術を始めている。ごく簡単な手術で数分で終わると思っていたが,ちょっと厄介なことになって,時間がかかってしまった。あなたたちも少し手伝ってくれないか』と言うので,私は父と手術台のところへ行き,彼が完全に縫合を終えるまでその犬の足を持っていました。もちろんその犬は完全に麻酔がかかっていたので,私たちにとっては少しも大変なことではありませんでした。手術が終わって犬は小屋へ静かに戻され,勝沼博士は上着を身に着け,いつものように教会へ行く準備を整え始めました。勝沼博士は彼を知るすべての人々から,日本人社会でもアメリカ人社会でも初期の指導者として愛され尊敬されていました」。

書式ガイドの注釈:末日聖徒イエス・キリスト教会に関する記事で,教会の名称を最初に引用する際には,正式名称を使うようお願いいたします。教会の名称の引用に関する詳しい情報は,こちらへ: 書式ガイド書式ガイド.