注解

信仰がいかに生涯学習者を生み出すか

生涯にわたり学び続けることは神が人類に最も求められていることである

       

今日、生涯学習者(目まぐるしく変化する今の世に適応するために、継続的に教育を受け、知的成長を促すという倫理観を実現させている人々)が必要とされていることについて多くが語られている。今日の「加速の時代」にあって、テクノロジー、グローバリゼーション、生物学的多様性の喪失などを起こす力は一挙に加速しており、生涯学習は単なる趣味ではなく、わたしたちにとって必要なものになっている。

生涯学び続けるべき理由は多い。今日、多くの者にとって最新知識がなければ仕事を続けることは困難であろう。1日の仕事の後または退職後に、趣味として学習を楽しむ者もいる。このような理由のいくつかが動機となって学習に取り組む者もいる一方、まったく別の理由で学習に取り組む者もいる。理由が何であれ、人が信じる宗教そして個人的な信仰によって静かに学習に駆り立てられることほど力強い学習への動機づけはない。

人が生涯をかけて学ぶことは、教室で学ぶことよりもずっと多い。末日聖徒イエス・キリスト教会の第2代大管長であったブリガム・ヤングは、この人生は、終わることのない学びの機会を与えてくれる「偉大な学びの場」であると述べた。わたしたちは家族の中で、地域で、教会で、そしてその他のすべての場所で学ぶことができる。ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008)が生涯学習の必要性を語ったとき、それは幅広く、奥深い教育についてであった。「学ぶことを止めることなどできません。自分の成長を止めるべきではありません。学ぶべきことはたくさんありますが、学ぶ時間は限られています」と大管長は語った。

多くの宗教が知識を得ることと知性を高めることの大切さを説いている。ある有名なユダヤ教のラビは、知性を「神から人類に与えられた最高の贈り物」と呼んだ。末日聖徒の聖典には「神の栄光は英知である」とあり、末日聖徒は「最良の書物から」学ぶように励まされている。コーランは「知識を持つ者」のみが「神への真の畏怖」を知るのであると教えている。

実際、信仰を持つ人々は、生涯学習によって神が人類に定めたなかで最も高い誉れある地位の一つを自分のものにできるのである。その理由には以下のものがある:

信仰は人が変わるのに必要な骨組みを提供する

聖書には、新しい状況に順応することを学んだ人々の話が豊富に記載されている。アダムとイブはエデンの園の外で新しい人生を生きることを学び、モーセを指導者としたイスラエルの子らはエジプトの外での新しい生活に対処した。囚われの身となったイスラエルの子らは、70年間にわたり愛するエルサレムの地を離れて生きることを学んだ。

      

わたしたちが失敗したとき、そして人生に変化が訪れるときに、物事のやり方を考え直し、心の奥底にまで問題解決法を探し求めるときに、人生の中で心に長くとどまる教えを学ぶことができるのである。信仰という骨組みは明るい光である。なぜなら、それは永遠に至る希望と、人生におけるより崇高な目的と計画を人に与えるからである。自分以外のものを目的とする時、人は失敗と変化に対して、より大きな平安を持って対処できる。すべての人が同意するわけではないが、宇宙の神が状況を掌握しており、わたしたちにとっての最良のものをわたしたちに与えたいと望んでおられると考えることで、多くの人は平安を得られるのである。

信仰は人々に積極的に学びの機会を探し求めるように励ます

著者であるドロシー・セイヤーは「教育の本当の終わりは簡単に言えばこうである:人が自分自身で学ぶ方法を教えること」と述べた。エレン・パーも著者であるが、彼女は「退屈であることを終わらせるには好奇心を持てばよい。好奇心には終わりがない」という言葉をよく用いた。

信仰は、好奇心を育て、疑問を持つことは良いことであると人々を励ます。「尋ねる」、「探し求める」、「叩く」という動詞は、聖書の中で集合的に500回以上用いられている。一人のラビによると、ユダヤ教では「子どもに質問するように教えることは、宗教的な義務である」という。マーチン・ルーサーはカトリックの教義に対して疑問を持ったことで宗教改革が起こった。ジョセフ・スミスの神に対する疑問によって末日聖徒イエス・キリスト教会が創立され、新しい3つの聖典ができることになった。何よりも一番有名なのは、キリストが信者に対し「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言ったことである。

信仰は学習の消極的なパターンなどではなく、自分自身で実行することにより知るようにと招待するものである。

信仰はわたしたち人類が知らないことに目を向けさせる

学習すればするほど、自分たちは何でも知っているという錯覚に陥るという危険がある。新約聖書でパウロは「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」と語った。1969年、モルモンの指導者ヒュー・B・ブラウンは、末日聖徒イエス・キリスト教会によって多くの重要な真理が宣言されているものの「まだわたしたちが知らない、想像を絶するほど偉大な真理が発見されようとしている」と述べた。

    

信仰のある人々のいるコミュニティでは、こういった発見は自然に起こる。わたしたちの兄弟姉妹の集合的な知力と経験を利用することで、学習がより加速するのである。ポール・カラニシは「人類が持つ知識は決して一人の人の中にとどまるものではない。世界中の人類がお互いの間に築く関係によって知識は増し、それは限りなく大きくなるのである」と記した。イエスが言ったように「ひとりがまき、ひとりが刈る」のである。

信仰は知識の修得を永遠の観点からとらえる

C. S.ルイスは「永遠に続かないものは、永遠に時代遅れである」と書いた。死後に持って行けるものはわたしたちが蓄積した学習だけである、というジョセフ・スミスの言葉を末日聖徒は伝統的に信じている。「人がこの世において得た英知の原則が何であれ、英知は死後わたしたちとともによみがえるのである。さらにジョセフ・スミスは「もし​ある​人が・・・この世でほかの人よりも多くの知識と英知を得るならば、来るべき世でそれだけ有利になる」と述べた。したがって、生涯学習は物質的な救いを得るためだけに行うものではないのである。

学習はこの世だけで行うことではない。ブリガム・ヤングの教えから「この世に生きている間に学習が終わることはない。さらに、幕のかなたに行っても、わたしたちは学び続けるのである」ということは明らかである。

生涯学習は絶対不可欠であると考えられる時代には、知識の修得を永遠の観点でとらえることのできる人々を社会は必要とするのである。

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